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October 07, 2006

「写真芸術論(第一課題)」

徹夜勤務明けで家に帰ってきたら、「写真芸術論(第一課題)」の添削結果が戻ってきてました。
この課題では、以下の4つのポイントについて評価されます。

・ 問題意識の鮮明さ
・ 作品の記述・描写の的確さ
・ 論旨の明快さと説得力
・ 結論の独自性

どうも「結論の独自性」に対する評価が一番悪かったようで...
ヘルムート・ニュートンの写真史の位置付けや、「ファッション写真」における彼の写真の意味、そして他作品との比較とか、そんなところをもう少し説明してほしいというような評価を頂きました。
う〜む、結論における独自性が一番不足しているのか...
では、多少ぶっ飛んだ結論でもありなんかな?

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『写真芸術論』レポート(第1課題)

ヘルムート・ニュートンにおける性の表現※ 選択テーマ:(1)身体/自己/性

1.はじめに
ヘルムート・ニュートンの写真の女性たちは、見事なプロポーションを持っている。
そして、その流れるような曲線と艶やかな肌の質感は、見るものにエロチシズムを感じさせる。
しかしながら、逆に、肉体、あるいはその内面から発する生々しさが感じられず、乾いた、何かしらよそよそしさも感じさせるときもある。それは、生身の人間でありながら人形であるような感覚を生み出し、まるで、ニュートンが想い描く通りに画面へ配置されたオブジェのようである。
この感覚は、ポール・デルヴォーの絵画を見ているときにも感じるものである。陶器のような白い肌と、美しいプロポーションを持っていながら、生気を感じさせない、亡霊のようなデルヴォーの描く女性達。
ニュートンが自らの作品で捉えようとした女性の姿とは、その写真表現に込められ意味とは、何だったのであろうか。

2.身体の性差の強調
ヘルムート・ニュートンは、1920年にドイツのベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。しかし、のちにナチの迫害を逃れてシンガポールに移住し、最終的にはオーストラリアの市民権を得る。ヘルムート・ニュートンの作品においては、後年の心臓発作によって作風が一変したと言われるが、このように様々な国を渡り歩いたことも作品へ与える影響として大きかったのではないだろうか。写真から湧き出てくる退廃感も含めて、ルードウェヒやビスコンティの映画で描かれる社会を感じるのはその現れであろう。

ニュートンの作品を評した下記の文章がある。
「女たちがエロティックな肢体をさらけだしながらも、その無表情な眼差しは、して男に媚びるのではなく、むしろ対等に快楽を享受する女の姿が表現されている。ただし、ニュートンの作品が、メイプルソープに比べてどうしても拭い切れない印象があるとすれば、それは、すなわち男が女の添え物として間の抜けた存在であればあるほど、女の姿があまりにも美しくエロティックに映ること、(後略)」(1)

これを示す作品として、ヘルムート・ニュートンの写真集『BIG NUDES』に収録された『Sie kommen㈵ Paris 1981』(図版1)と 『Sie kommen㈼ Paris 1981』(図版2)がある。この2つの写真は、写真集を開いたときには、見開きの左右に並んでいる写真である。この2つの写真のなかでは女性達は同じポーズを取っている。しかし、左側のページではきっちりとパンツやタイトスカートを履きこなしているのに対して、右側のページでは一糸纏わぬ姿である。ヒールの高い靴を履いているが、カメラからの視線に対して、彼女達の裸体を隠そうとするものは何もない。

つまり、男性が美しいと感じる女性を見たときに、その衣服の下を見たいという欲望を具現したかのような光景が、写真集のページを広げた瞬間に展開されるのである。

このように、ファッション写真という領域で脚光を浴びたニュートンは、男性が女性に感じる「性差の強調」によって、男性、あるいは自分自身の持つ欲望を写真の中で具現化しようとした。

3.表現方法のパターン
ニュートンの作品を見ると、幾つかのパターンを感じさせる。
一つは、現実の場所なのに、ありえないシチュエーションが展開するパターンである。
『Elsa Peretti New York 1975』(図版3)は、そのパターンが見られる作品の一つである。
昼下がりの乾いた空気のなかで、ビルで埋め尽くされた街の一角で煙草を一息ついているかのような女性の姿。黒のレオタード、黒の網タイツ、そして黒のロングの手袋が彼女を均整の取れた彼女の肉体を包み込んでいる。それらの合間から露出した白い肌が作り出すコントラスト。彼女は、まるで都会に紛れ込んだウサギのようでもあり、町に住む普通の人たち(=アリス)を不思議の国へと誘うべく、つかの間の休息を取っているかのようである。しかしながら、女性の持つ現実離れした立ち姿に対して、現実の風景でありながら背後のビル群からは精気を感じられない。
そのため、画面から漂う「怠惰な空気感」が観る者に強烈なインパクトを与える。
このように、日常の中で見られるごく普通の風景のなかに、異質なものを組み合わせるのである。

もう一つは、映画のワンシーンであるかのような、ストーリー性を持たせたものである。ここでは、流れ行く時間の一瞬を切り取ったかのようでありながら、あくまでも計算された画面が展開される。
『Woman into man Paris 1979』(図版4)は、エレベータホールで展開される男と女のストーリーの一コマであろう。
煙草同士を付けて火を移すという行為であるだけでなく、女性に迫る男性とその距離を保とうとする女性という構図が、男性の上半身の傾き加減と、女性の左手の仕草から感じられる。しかしながら、彼女のスカートのスリットから垣間見られる脚は、その行為に反して挑発的である。

3.眼差しの交錯
加えて。ニュートンの作品を見ていると、不思議な感覚に陥ることがある。
例えば、テキストの中で紹介されている『Self Portrait with wife and models Paris 1981』(図版5)がある。ここでは、カメラを通して、全裸の女性に向けられたニュートンの眼差しとニュートンの妻の眼差しとが交差する。

しかし、ここには、写真のなかにいる人間同士の視線の交差だけではなく、写真の中の人間が、その写真を見ている人間へと視線を注いでいるような、もう一つの視線の交差が存在するように思える。本来であれば、写真の中の出来事に対して第三者である「鑑賞者」が、ニュートンの作品では「干渉者」として組み込まれてしまったかのように感じるときがある。つまり、視線の交錯、ニュートンが「覗き見」をしている我々を見透かしているかのように感じてしまうのである。
従って、この『Self Portrait with wife and models Paris 1981』では、ニュートンの視線はカメラ越しにモデルに向けられたはずであるのに(実際にはその目を見ている訳では無いのに)、鑑賞者であり傍観者である我々へ、あたかも「観察者」のような視線を投げつけていると言えるのではないだろうか。
また、『Two pairs of legs black stockings Paris 1979』(図版6)では、二人の女性の前には椅子のあり、そこにはテレビが載せられている。ブラウン管には何かのテレビ番組が映し出されているようにも見えるが、ブラウン管が鏡のように彼女たちを映しているようにも見える。このように、鏡だけでなく、ガラスを用いたテレビや窓など、光を反射するものが写真の中に存在することで、見るものにその視線を投げ返しているようにも思われる。

このような、「眼差しの交錯」によって、エロチィックな世界観が強調され、表現に深みを与えるのであろう。


4.おわりに
ニュートンは以下のように述べる。
「こういう雑誌にのっているものは、ファッションの世界でつくられているものよりも因襲的でありきたりだ。私がとても大切に思っていたある種の神秘性、ある種の秘めやかさは、こういう雑誌にぶちこわしにされてしまった。」と。(2)
そして、「はだしの女性と靴をはいた女性とでは立ち方が違う。ハイヒールをはいている時、女性の脚と背中にはある種の強さや緊張がある。筋肉が弛緩せず、はりつめていて、くっきりと際立つようになる。」と述べることで、自らの美意識に対する正当性を強調する。(3)
このように、ニュートンが自らの写真の中に閉じ込めようとした世界は、常に演出された「ヌード」、つまり人体の理想的な美しさを追求するものであり、モデルの持つ生々しい姿かたちをそのまま捉えた「ネイキッド」ではなかった。

しかし、ニュートンの写真が必ずしも芸術的な「ヌード写真」として扱われていなかったことを認識しなければならない。それは、ファッション写真の延長として性差の表現を取り入れたニュートンの作品が万人に受け入れられたかどうかという点があったからである。
参考文献『写真を<読む>視点』では、「ポルノグラフィは社会のなかで位置づけられ、議論の対象となる場合では、しばしば「猥褻」という概念で結び付けられる」と述べられている。
人々における「猥褻」の捉え方がどうなのか、という差分があるとしても、社会的観点から見たときの特殊性、あるいは反社会性が色濃く強調されていることが、性(あるいは性差)の表現というテーマが根底にあるとすれば、ニュートンの捉えた写真、および写真の持つ世界観は「性の表現」として特筆すべきであろう。


 ■ 註

(1) 二階堂充・天野太郎・倉本信乃著『横浜美術館厳書1 ヌード写真の展開』有隣堂、1995年、
85ページから引用

(2) ジェイン・ケリー編/高橋則英訳『ヌードの理論』青土社、1994年、109ページから引用
(3) ジェイン・ケリー編/高橋則英訳『ヌードの理論』青土社、1994年、110ページから引用

■ 参考文献
・ アール・ヴィヴァン編『ヘルムート・ニュートン写真集 BIG NUDES』リブロボート、1991年 
・ 二階堂充・天野太郎・倉本信乃著『横浜美術館厳書1 ヌード写真の展開』有隣堂、1995年
・ ジェイン・ケリー編/高橋則英訳『ヌードの理論』青土社、1994年
・ 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年
・ 小林美香著『写真を<読む>視点』青弓社、2005年
・ Marshall Blonsky ”Helmut Newton Private Property” Schirmer Art

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