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November 2006

November 29, 2006

とりあえず、ですが...

最終プレゼンの企画書、2時過ぎまで作成作業をしていて、先ほどプリントアウトしました。

文章的には、推敲が不十分なんで、言葉足らず/説明不足のところがあるけど、作品の制作意図として自分の想いを書いたつもり。
と言うことで、あとは作品の最終形態をどうするかということ。企画書では、作品形態が決まってなかったこともあり、記述内容については、かなり手抜きしてますけどね。(平面作品としか書いていない...)

当日までは変更可能なんで、まずはこれで研究室に送りつけて、あとは期日までジタバタしようと思ってます。って、大丈夫かあ...

November 26, 2006

低迷中

曇っていたせいも有り、日中も冷えてきました。
みなさん、風邪には注意してください。(特に、最終プレゼン対象の方々)

この週末は、土曜日の午後が休日出勤で平日の遅延をリカバリする以外は予定無し。
なんで、出来る限り最終プレゼンの構想/制作に当てたかったけど、気持ちだけが焦るだけで行動が伴わないという、空回り状態でしたね。
とりあえず、なんか準備はしないとダメだな、ということで近所の画材屋や横浜駅の東急ハンズに行ってみた。漠然としたイメージのまま材料だけは買ってみた。
そうそう、恵比寿の写美でフォトコラージュに関する展覧会があると言うことで、何か参考になれば、と考えたりしたけど、結局出かけなかったなあ。いろんな情報を得ることがプラスになるのか、マイナスになるのか、なかなか掴めない。

ところで、やっぱりA3ノビが印刷できるプリンタが欲しくなった。
自分へのプレゼントとして買うか?(プレゼントがプリンタというのもちと寂しいが...)

PS.京急の戸部駅から東急ハンズの間を歩いているとき、「裏横浜のカレーうどん」というのぼりが乱立しているお店が気になった。そのうち行こうかな。(横浜、平沼商店街にあります)

November 23, 2006

今日も学習会

今日はサテキャンではなく、中央区(東銀座の歌舞伎座裏)の区民館での学習会でした。
私は今月の締め切りでは課題提出を考えてなかったんで、どちらかというとモチベーション持続と、加えて最終プレゼンの構想固めをするための参加でしたね。
年度の終盤近くなってくると、アレをしないと、これもしないと、言った感じでバタバタしてしまうんだけど、この学習会では、他の人々と話をしながら(実は雑談も多し)、自分の中でどういうふうに進めようかなどと考える場でも有るんで良いんじゃないでしょうか。
皆さん、同じような悩みを持っているですよねえ。

ところで、本日の参加者は6名。情デ5名(うち、一名は来年度情デから別コースへ移動予定)と去年まで情デで現在は染色コースに在籍中の方1名という内訳でした。どの分野に属していても、一般科目のレポート/スクーリングは進めていかなくてはならないんで、それらの情報もやり取りできる場になってきましたね。
まあ、情デって、間口の広いところなんで、この学習会ではそれが反映されているのかもね。

銀座ということで和光を撮ってみました。携帯電話のカメラでは辛い...
クリスマスムードなんだけど、情デのクリスマスと言えば恒例の...
ひぇ〜!!

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そうだったのか...

この前の日曜日、聴講会で本学に行った際、ギャルリ・オーブ前で「日本の現代住宅 1985-2005」展が開催されていたんで、昼休みの20分程観てきました。
この展覧会は、もともとは東京にあるギャラリー・間で開催されたものなんだけど、美術館を巡回するだけでなく、展示用の住宅模型の制作に協力した学校も巡回しているとのことで、12/2まではうちの学校で展示中という訳。現役の著名建築家による住宅の模型と三面図が並んでました。(しかも無料)

で、「前川國男展 in 京都 モダニズムの先駆者 生誕100年」もギャルリ・オーブで開催中となっていたんですが、目に入ったのは年表のパネルのみ。これで展覧会だと「誇大広告だな」と思っていたら、展示そのものはホール内で行われており、その日(日曜日)は閉館だったとのこと。(こちらは入場料必要)
ちゃんと告知を調べなかったんで、気付きませんでしたよ。これを知っていたら、Fさんを裏切って、聴講会の日程を変えずにいたかも(苦笑)
ちなみに、前田國男は、私はGWに風景スケッチの題材とした京都会館の設計者で、ル・コルビュジェに師事した人です(蛇足ですね...)

November 21, 2006

カメラを持って

土曜日にサテキャンに行ったときも、日本橋や人形町で撮影してみました。

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これって、不思議な写真になりましたね。
撮影に行こうとすると、学習会仲間のOさんには「狩りをしに行くんですね」と言われてますが、カメラで被写体を捉えることを"Shooting"と言いますから、確かに狩りみたいなもんですね。

で、日曜日は京都の本学に行く機会があったんで、京都市内で「狩り」をしてみました。

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この二枚は南禅寺で。

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四条通りと錦市場辺りでの一コマ。
以前は、日曜日のこの時間だと、錦市場のほとんどの店は閉まっていたような気がするんだけど。

November 20, 2006

この週末は

最近の学習と言えば、最優先事項は「最終プレゼン」の企画書。
でも、前の記事の通り、考えが纏まらない状態...

と言うことで、この土曜日はサテキャンの学習会に参加して、他の方から意見を貰ったり、同じく「最終プレゼン」を受ける予定の方の状況を教えてもらったり。
そのあと、学習会を早めに切り上げさせてもらって、新幹線で京都に移動し、日曜日は、本学で開講された「卒業制作/中間プレゼン」の二日目分を聴講させて貰いました。

この二日間の収穫は大きかったですよ。
土曜日は、最終プレゼン経験者のmさんがわざわざサテキャンまで足を運んでくれました。
mさんのブログで泣きを入れたからでしょうね。助け舟を出しに来てくれましたよ。微笑まれた笑顔が天使に見えました!!(カズやん調)
私が考えている作品の方向性や考え方についての丁寧なコメントを頂いただけでなく、最終プレゼンの状況や企画書の書き方などもお話頂き、「最終プレゼン」という場を経験したことがない学習会メンバ(私は聴講だけは経験済み)にも参考になったようです。
mさんのお陰で、相談会を受けさせて頂いたようなものですね。

日曜日は、聴講会。
mさんのお知り合いで、学習会仲間のSさんが二日目のトップバッターとしてプレゼンされたんですが、最初だったんで先生達の集中力が高く(?)、少々キツめのコメントがありました。なんで、後で話を聞きにいったら、「ダメです〜」と弱々しい返事が。まだ期間があるので、リカバってください!

ちなみにうちのコース長(E本先生)、コメントも厳しいですが、ときどきギャグが挿入されたり、キツいコメントをしたあとには、ちょっと間を置いてからフォロー(飴と鞭?)したりしてます。
「新橋のマルコビッチの穴」や「新宿ゴールデン街の40センチ幅の通路でオヤジの腹を引っかかって動けなくなった」ことなど、多岐に渡ってコメントを披露してくれました。さすがです!
学生に指摘するときに引用する内容の幅広さも凄いです。多分、コメントされた回数は参加された8人の先生の中で一番多かったかも。(下の写真の右側がE本先生)

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「卒業制作/中間プレゼン」では、本学学生(本科生)約20名のうち、3/4は初日でプレゼンが終わっていたため、午前中で全員分が終了し、午後は姉妹校の学生(併修生)6名のプレゼンとなりました。
プレゼンの形としては併修生の方が準備が良かったようにも思えましたね。パワポ(Powerpoint)でそれなりの形にしてみせてくれたし。
でも、何を目指しているのか、何でそれを造るのか、という根本的なところが不明確な方も。
今の私と同じような感じで「表現が面白いから」とか、「なんとなく好きだから」とか、そんな説明で終わっている人もいたようにも感じました。(違ってたらゴメンナサイ)

そうそう、午後の最初が写真を扱われた方だったんですよね。当初は午後はパスしようかと思ってたのに、踏みとどまったのは「写真」というキーワードに気になったからです。
で、プレゼン内容を拝聴させて頂いたら、私を同じような技法で撮られているものでした。
ただし、彼女はトイカメラで長時間露出を行っているとのこと。(私の場合は、ちゃんと撮れるはずのデジタル一眼レフなのに、曖昧な画面を作り出そうとしている)
彼女は、その技法を使いつつ「日常の景色」のなかに「非日常の景色」を浮かび出そうと言うコンセプトだったんで、対象とするものが全然違いましたけどね。
コンセプトは違えど、ここで交わされた先生達のコメントはかなり参考となりました。(土曜日にmさんに頂いたコメントを同じようなコメントが某先生からありました)

ということで、今になってですが、ちょっとだけ作品として最終形態が見え始めたような気がしてきました。

PS.京都のコンビニで買いました。市内限定だそうです...

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November 18, 2006

学習会から聴講会へ

先日のスクーリング以来、最終プレゼンにどんな形の作品を出すか、気持ちが揺らぎ続けている状態です。スクーリングで取っ掛かりとなった「写真」から、何か違った形態へと展開していきたいなあ、と考えているんだけど、モヤモヤしたものがクリアできないでいる。企画書締め切り近いのに...

なんで、いろんな角度でアドバイスを頂ければということで、プロの写真家であるFさんにその写真を見て貰おうと思って、土曜日の学習会に急遽参加する(当初は卒制・中間プレゼンの聴講で不参加だった)ことにしたんだけど、お仕事の都合で、学習会参加は見合わせるとの連絡が...
これは凄く残念です!!
私のほうからFさんには「Web2」課題のアドバイスをすることになっていたんで、双方とも「学習会の相乗効果」が得られるというストーリーだったんですけどねえ...
アドバイスやコメントは他の人から頂くことにしよう。

聴講会の方は、情デ研究室のO久保さんに土曜日から日曜日に変更して貰ったんで、学習会終了後は京都行きとなります。(前日移動)
観光シーズンだけど、日中は学校で過ごすことになるでしょう。
聴講会は午前中だけにして(抜け出して)、午後は市内観光&写真撮りしようかなあ...

November 15, 2006

徒労だったか...

日曜日に撮ったデジカメのデータをインデックス印刷しようと、自宅のメインマシン(G5)でいろいろやってたけど、なぜか上手くいかず。
やたら取り込みに時間がかかるし、プリンタへデータを出力している兆しも感じられない...
スクーリングのときにiBookから出力したときのほうがまだ早かったぞ!?
お陰で昨日は寝るのが遅くなっちゃいましたよ。
で、Canonのサイトから最新版をダウンロードしてアップデートしたら、あっさりと印刷始めました。
設定画面も全然違うし。やっぱり、マメに更新しろということかなあ。
そんな訳で、日曜日と月曜日の作業は完全に徒労でした。ああっ、睡眠時間が勿体ない...

と言うことで、先の記事に引き続いて「中華街編」の写真です。ちょっとやり過ぎの感じも有りますが、御容赦を。

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あっ、マゼンダのインクが切れた!!

November 14, 2006

ポラロイドカメラ

最近、写真づいているんで、急に写真集が欲しくなった。こないだアラーキーの本を買ったばかりなのに。
と言うことで、Bankart横浜のShopや書店で写真集を物色していたら、森山大道がトイカメラ(ポラロイド式HOLGA)で都内を撮影した写真集が気になったんで、買っちゃいました。Bankartにおいてあった写真展の図録も気になったけど。

■ 写真集『t-82』~Daido MORIYAMA VS HOLGA!(発行:パワーショベル)

全体的に、薄い膜を通してみるような光の具合と、ざらついた画面の感じが好きです。
自分がモノクロフィルムで写真を取ると、どうしてもコントラストを強調してシャープさを得ようとしてしまうんですが、これらの写真はそれとは逆ですね。
そう言えば、森山大道の作品は雑誌に何カットか載っているものしか見たことがないので、写真集では初めて。

ところで、ポラロイドでモノクロ写真と言えば、昔は仕事でよく使ったものです。
被写体となったのは、計測器(オシロスコープ)の画面上に映った信号の波形でしたが...
カメラ本体にはスピード調整のダイヤルしかなく(焦点距離は添え付けられたフードでおのずと固定される)、しかも信号の明るさや動きは一定ではないんで、結構難しいんですよね。たまにしか使わないんで、経験値がなかなか上がらず、失敗の山を築いたものでした。
今は、計測器にもパソコンみたいにOSが搭載されているんで、カメラを使わなくてもデータとしてHDへ格納できたり、ネットワーク経由受け渡しできるようになったし。
便利になったけど、「また失敗しちゃったよ~」とか「全然なってない!オレが撮る!」なんて、皆でワイワイやる姿は無くなりましたねえ...

未だ定まらず...

日曜日は、ディジタル一眼レフカメラを持って、横浜市内(元町〜中華街〜みなとみらい〜馬車道〜伊勢佐木町)をフラフラを歩いてきました。目的は、写真を撮る事。

前回のスクーリングで、とりあえず写真の方向で考えてみることにしたのに、その後の展開が全然浮かばない状況なんだけど、やり続けた中から何かが得られるかもしれない、と言う(ちょっと投げやりな)感じで、今回は元となる素材を集めてきたという感じです。

先生や参加された方々からいろんなアドバイスを貰ったんで、技巧/表現の面白いというコメントを貰った「風景と融合することによる人物の抽象化」(=言わば、人と外界との接点の曖昧さという観点)と、この方向で進めば、メイプルソープと同じだよというコメントを貰った「一方的な偏向に満ちたコミュニケーション」(=言わば、単なるフェチ的観点)の両面で気持ちの感じるままに撮ってみました。

この写真は「人物の抽象化」を表現したかったものですね。

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こっちは、フェチ度高いです。皆さん、この路線を目指せといってますが...

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上記の観点とは違いますが、こんな写真もどうでしょうか?

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と言う訳で、写真撮ってみたけど、これからどう展開すれば良いんだろ?
とにかく、撮りまくるしかないのかなあ(森山大道氏の言葉もあったし...)

November 11, 2006

"table"

WEBマガジンJDN(Japan Design Net)11/8号の「デザイン&デザイナー」コーナーで紹介されている建築家の石上純也氏。
名前はピンとこなかったけど、"table"という作品の写真を見て思い出しましたよ。

彼のこの作品は、月島で開催されていた「キリンアートプロジェクト2005」に出展されていて、驚きと感動を覚えた記憶があります。
このテーブル、長さ9.5m×幅2.6m×高さ1.1mというかなり広いテーブルなんですが、テーブルとなる板(天板)の厚さが3ミリしかないというもの。(支えている4本の脚も普通のテーブル並みの太さ)
その広いテーブルのうえに様々なもの(アフタヌーンティのイメージ?)が載っていたので、それは驚くしかないです。

このJDNの記事では、「さわると、天板は水面に波紋が広がるように波打つ」と書かれていますが、一緒に観ていたIさんが、何も手を触れずにいたのに、天板が揺れているのを見つけて、係員の方々を含めて「おっ~」と感嘆の声を挙げた記憶があります。人やエレベータが動いた振動が床を通じて共鳴したのではないでしょうか。(最初は地震と思っていた)
単に繊細なデザインの作品と思っていたら、構造設計をベースに、しっかりと理論付けされたものだったんですね。(当たり前か...)

November 10, 2006

11月の学習会

一人で悶々と課題に取り組むよりは、同じ悩みを抱えた仲間と相談しあったほうが良いでしょ、と言う事でちょっと宣伝です。(メインはそれか...)
11/18に東京(人形町)のサテキャンで学習会を開催してます。私は居ませんが(苦笑)
情デがメインの学習会ですが、自主学習の場を提供しているという感じなんで、自分がやりたいことがあれば、参加は自由ですし、教室への出入りも自由です。
コースに関係無い、共通的なことの情報交換にも利用できますので、興味の有る方は当日サテキャンまで足を運んでみてください。

November 09, 2006

スクーリングに関する雑感

先日、学習会仲間のFさんの情報で、雑誌"pen"の最新号では現代アートの特集をしているということで、早速購入して読んでいたら、この本で取り上げられていた写真家の荒木経惟氏の個展が、年末まで江戸東京博物館で開催中とのこと。
東京都現代美術館で開催中の大竹伸朗氏の個展も気になるが、やっぱ、”アラーキー”だな!?
この人は、エロスを前面に打ち出した作品のインパクトが高いけど、今回の個展のテーマである「東京の情景」というような街を捉えた写真も良いんですよね。
で、写真展を観に行くのが待ちきれずに(いつ行けるか判らないという事も有り)、こんな本を買っちゃいました。


■ 「東京人生SINCE1962」( 荒木経惟著/パジリコ)

この人、やっぱり凄いです。東京という街の切り取り方が良いですよ〜

という事で、スクーリングの自分の作品を振り返ると、付け焼き刃、というか底が浅いのを実感してしまいますね。
1日目で先生とディスカッションして、方向性を定めたはずなのに("Despoil"というテーマもそこから生まれた)、2日目の撮影作業で得られた表現を追求しようとして最初の方向性から外れてしまったんですからね。なんで、最終日の合評会では、説明と実際の作品との乖離が生まれちゃいました。

最初考えていたのは、後ろ姿は、相手の表情などが見えない分、シルエットやプロボーションなどを「純粋に」見つめる事になるので、人という存在が、個を強調・主張しない、何かしら「抽象的な」存在になりうるのではないか、ということ。
でも、いろんな作業をしているうちに、心の中で「抽象的なもの」=「オブジェ」と置き換えてしまい、合評会ではその「ノリ」で説明してしまいました。
でも、本当は、人を抽象化することによる「人と街との同化」を表現した写真だったという説明をしなければならなかったんですよねえ...

ところで、速度優先モードで、あれだけの低スピード(数秒から1/15秒まで設定を振らしてトライ)としながら、連写(うちのでは、3枚一組)をするという経験は初めてでした。でも、これらの作業を行えたんで、今後の制作の糧になりましたよ。
と言いながらも、写真の撮影で終わらせずに、デザインの要素を織り込みたいよなあ、と思う今日この頃でした...

November 07, 2006

表現方法の模索

今回のスクーリングでは、事前準備として、"My Collection"を持参することだったんで、さんざん迷ったあげく、撮り貯めていたディジタルカメラの写真データの中から、「後ろ姿」の人物が写っている写真だけ100カットを選んで、それらを写真集にしてみたら、というコンセプトにしてみました。
で、想定していた通り、「なぜ後ろ姿なのか」が先生からの疑問点が投げかけれらました。
単に気になったから、という言い方では、最終プレゼンで先生達の格好の餌食?となるという訳で。
で、カメラを介して生まれてくる、撮影者と被写体との間のコミュニケーションってのを考えてみた。
それが、下記のメモ書き。

003

本来ならばコミュニケーションが成立しずらい、後ろ向きの人(自分とは対峙していない人)との間で、どんなコミュニケーションが生まれるんだろうかというのが、疑問の一つ。
この流れで考えていった結果として、撮影者が勝手に被写体との間にコミュニケーションを成立させようとしているのでは無いか、と言うことを考えてみました。
この流れで生まれた一文が、「一方的な略奪によるコミュニケーション」というもの。
見ず知らない、匿名の人とコミュニケーションを撮ろうとする現代の姿と、街角で見かけた人と勝手にコミュニケーションを成立させようとした作品とは、何かは根底に繋がるものがあるんじゃないかと。

でも、そんなテーマを携えながら、二日目の午前は、人形町界隈でディジタル一眼レフカメラを使って写真を取ってみた次第。
そこから得られたのが、こんな写真でした。

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ディジタルカメラで撮影したものではなく、フィルムカメラを使ったときに、設定が上手く合っていなかったという、不安定な状態での「荒さ」、あるいは「危うさ」みたいなものを作り出す事で、被写体である人と街とが解け合うような、不思議な風景が得る事が出来ました。
なんで、当初イメージした「コミュニケーションの一つの在り方」と多少の違和感を憶えつつも、人形町の撮影で得られた写真を前面に出して、壁に展示していく形態を取る事としました。
今回のスクーリングは「見せ方」というか、展示方法に対するアプローチを模索することも目的の一つだったし、「滅多に無い期待だから、壁一面を使っての写真の展示にチャレンジしてね」という先生のアドバイスも有ったんで、そんな形態を使ってみましたよ。

と行った感じで、二日目で取った写真を元に最終日の合評会に望んだんですが...(続く)

November 06, 2006

サテキャンでのスクーリング修了

東京サテキャンでのスクーリングが終わりました。
運動した後の心地よい汗と疲労感ではなく、精神的な疲れによる変な汗と、どんよりとした疲労感を味わいました。
最終プレゼンを見据えているんで、単に好きだからこういう作品にした、という説明では許してくれません。そもそもそんな言葉を出すもんなら、最終プレゼンでいろんな先生に突っ込まれることはめにみえてますからねえ...

という訳で、私が合評会に望んだのは、写真を使った作品でした。
どんな内容だったのかは、またの記事で...

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November 05, 2006

まあ、いろいろと...

「写真芸術論」(第二課題)の添削結果が戻ってきました。
最近の傾向となっているように、いろいろな情報を盛り込み過ぎて全体として散漫な印象を与えるレポートになっているとのこと。どれか一つの問題に絞り込んで、それを深く掘り下げて欲しいというのが先生の要望でした。
具体的に言うと、今回が現代アートにおけるセルフポートレートを題材にしていたところもあるので、アンリ・フロランス、シンディ・シャーマン、そして、ジュディ・データーの写真における「見る/見られる」の関係には、どのような「仕掛け」が施されているかを写真に即して説明していれば良かったとのこと。
ううっ、ちょっと気付いていたところもあるけど、軌道修正できなかったんですよ...(字数を埋めるので精一杯...)

で、東京サテキャンでのスクーリングは二日目です。
先生の頭の中では「ファイナル」が視野に入っているので、求めている答えのレベルがいつもより高いです。なんで、ちょっと見えたかなと思って先生とディスカッションするんですが、更なる問いを与えられて、それでまた頭を抱え込んしまうことに...
私の場合は、サジを投げた?のか、いろいろやっているなかから生まれるかもしれないですよ、なんて言うというコメントを貰ったんで、外に出て撮影してみることに。お陰で、1時間ちょっとで300枚撮ってました。さすが、ディジタル一眼レフ!?
連写モードを活用してバシャバシャ撮ったけど、空き容量とか気にせずに出来るのが嬉しい!

それたの写真から10枚ほどピックアップして、また先生とディスカッション。ここでやっと好感触の写真が。
と言う事で、少しずつ前進し始めました。二日目の半ばを過ぎてからでは遅いんでしょうけど。
でも、朝の時点では、「この状態ではファイナル、キツいですよ」とちょっとダメ出しを貰って、「笑うしか無い」状態になってたんで、それよりはマシな状況だと思う。(と言うか、思いたいです)
 

November 04, 2006

「写真芸術論」(第二課題)

11/2に「写真芸術論」の第二課題の結果が出てました。
セルフポートレートのテーマにしたのに、ポートレートに関する考察をごちゃごちゃになってしまった割には、そこそこの評価を貰いました。まあ、そんなもんでしょ。最近の推敲不十分状況からいくと仕方無いか。今年度は同じような言い訳ばっかりだな。
しばらくAを見ない...(某映画タイトルのもじりか?)

という訳(?)で、恒例の全文掲載です。あくまでも反面教師として活用ください。

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『写真芸術論』レポート(第2課題):セルフ・ポートレイトにおける視線
※ 選択テーマ:セルフ・ポートレイト

1.はじめに
 自分は写真に撮られることが苦手である。従って、自らセルフ・ポートレイトを撮ろうと思うことはほとんどない。自分からセルフ・ポートレイトの撮影を望むとすれば、その状況でしか得られない自分の姿を残しておくための「記録」という形になるであろう。
 では、写真を撮られることが苦手な理由はなんだろうか。
 シャッターが切られるまでがほんの短い時間であっても、何かしらの表情やポーズを取る必要があるとの強迫観念があるからかもしれないし、あるいは、反対に自分が意識していない姿をカメラに撮られることへの恐れの気持ちからなのかもしれない。

2.セルフ・ポートレイト写真の黎明期
 ポートレイト写真が、写真として最初のビジネスモデルであったことが参考文献『写真美術館へようこそ』で記載されている。そして、19世紀の社会において、写真ビジネスが成り立った理由として、本文献のなかでは以下のように述べられている。
 「人々が争って写真館に足を運んだのは、それだけ自分たちの”顔”を求める欲求が強かったからともいえます。(中略)自分たちの社会的地位や力を誇示するシンボル的なイメージを求める必要がありました。その一つが”顔”すなわち肖像だったわけです。」と述べる。(1)
 同様の理由で、写真家が自らのポートレイト写真を追い求めることとなる。
 参考文献『ヌードのポリティクス』のなかでは以下のように述べられている。
 「理想化された自分の像への熱狂は、経済的ステータス・シンボルとしての動機の他に、カメラという19世紀科学技術進歩の賜物への妄信からと理解できよう。(中略)写真に描かれる全てが客観的な事実だとしたら、写真に写った理想的な自分の像もまた、疑いようもない事実である。」(2)
 加えて、「セルフ・ポートレイトを制作する動機には、まず<自己>という認識と、自らのアイデンティティを確立しようとする意志がある。」と述べる。(3)
 19世紀のセルフ・ポートレイトにおいては、状況を設定した擬装を用い、ある役割を演じたものも見られたが、ほとんどは上記のように、社会的、経済的、文化的なステータスを表した姿かたちを、後世まで残しておくための記録とするケースであった。

4.セルフ・ポートレイト写真とアートとの関係
 セルフ・ポートレイトの持つ意味が大きく変わったのは20世紀に入ってからであろう。
それは、写真とアートとの関わりの変化も要因の一つであった。参考文献『コンセプチュアル・アート』では「つまるところ、写真を使うことでコンセプチュアル・アートが生んだ最大の効果は、自明のことを表明するのではなく、問いを発する機能を写真にあたえたことだった。コンセプチュアル・アートが写真を変質させるわけではないが、写真というものに対する考え方は変わった。見る側の、見る行為に対する自覚を高めた。」(4)
 この引用文では見る側の視点で書かれたものであるが、見られる側の視点で考えれば、「問いを発する機能」をどのように写真に埋め込むかが課題だったと捉えることができる。そのなかで具限化された方法の一つが、自分の内面にある視点や思想などをセルフ・ポートレイトという形で表現することであった。
 1980年代、アートでは「新表現主義」が主流となった頃に、写真ではコンストラクション・フォトグラファーが台頭する。テキストで紹介されているシンディ・シャーマンはそのなかの一人であり、セルフ・ポートレイトを中心に作品を発表し続けた。
 ところで、シンディ・シャーマンの初期の作品は、様々な女性の姿を自らが演じてみせたものであった。それが映画の中のワンシーンという設定でなくとも、それ以外のメディア、あるいは通常の日常生活で垣間見るようなシーンが展開されている。(参考作品1)

 この時代を知らない世代であっても、過去のテレビで見た風景とリンクして、ノスタルジックというような不思議な感覚に陥ることがある。しかしながら、服装や化粧を変え、ウィッグを付けることで様々な姿を見せる写真からは、シャーマン自身の個性が希薄である。なにかしら、それらの外側を纏うものが「殻」となり、シャーマンとしての素の部分を殻の中に隠しているように思えてくるのである。

5.セルフ・ポートレイト写真とジェンダー
 黎明期のセルフ・ポートレイトが、当時の男性中心社会における「社会的、経済的、文化的なステータス」を示すものが主流であったとすれば、1960年以降は、フェミニズム運動やウィメンズ・リヴ運動を反映するかのように、女性によるセルフ・ポートレイトが見られるようになった。
 ジュディ・データーの作品は、孤独、葛藤、老い、身体性、セクシュアリティなど女性が抱える問題や不安のような内面性を扱ったものと、擬装を用いることで社会が求める女性の姿を劇画化し、社会が持つ女性に対する固定観念を批判した(あるいは茶化した)ものがある。
 参考作品2の《食べる》では、「見られちゃった」と驚きの表情のインパクトが大きいが、この女性がそんなにたくさんのものを食べようとしているのか、テーブルの上ではなく部屋の片隅で食べなければいけないのか、という疑問符が投げかけられる。

6.セルフ・ポートレイト写真における視線と自己演出
 私が人物を撮る場合には記念写真のように事前準備を経て撮ることは少なく、私が自分勝手なタイミングで撮っていることが多い。
それは、妙に作ったような笑顔やポーズよりも、そのときの流れの中で自然に生まれた表情や動作を捉えたいからである。
 しかし、ポートレイト写真においては、自分が撮られるということが予め判っているため、撮られる側は自分の目の前に置かれたカメラという存在を意識せずにはいられない。加えて、カメラを媒介とした撮影者の視線の存在も意識することになる。そこには常に二つの視線が存在するのである。そして、見る側と見られる側という一方向の関係のなかで、被写体となる側は「見られることへの対処行動=自己演出」を行ってしまう。
 テキストの中で、フロランス・アンリの作品に対して、「この見る−見られるという関係の本来的な非対称性が、セルフ・ポートレイトにあっては「同位」にあることを物語ろうとする。」と述べている部分がある。(5)
 ここでは、撮影者=見る側と被写体=見られる側という関係が、撮影者=被写体になったことで崩れたことを示している。主題を客観視する撮影者と、視点に対峙するエモーショナルな被写体が同一人物となるからである。しかし、実際にはカメラという、もうひとつの客観的な視線が潜在している。
また、セルフ・ポートレイトを撮るためには、カメラのシャッターボタンを押すという行為以前に、まずはカメラの前に立つという自発的な行為が必要となる。例えば、カメラが自動的に動作するような細工を施しても、結局は画面の中に収まるための行動を起こさなければならないだろう。このような行動が既に「自己の演出」(テキストのなかでは「作為性」と述べている)の始まりである。

7.終わりに
 ポートレイト写真を撮影しようとするときに、戸惑いのようなものを感ずることはないだろうか。綺麗に上手く撮らなければいけないという気負いとは異なる、ある意味「照れ」のようなものである。
これは、ポートレイトを撮影する際に被写体と向き合うときに生まれる感覚である。撮影者がカメラを通じて被写体を捉えるときは、こちらが被写体を観ていると同時に、こちら側もカメラを通じて観られているということへの気恥ずかしさが内在しているからではないだろうか。撮影者(あるいは観察者)として冷静に、そして客観的に被写体を見つめたいのに、被写体と対峙することによって感情の動きが生じてしまうのである。
 従って、セルフ・ポートレイトを撮影するということは、その感情の動きを排除して、どれだけ自らを客観的に見つめられるか、そして作品を作るための題材・オブジェとして扱うことが出来るか、ということなのかもしれない。ジョン・コプランズのセルフ・ポートレイト作品(参考作品3)の見ると、そのような考えを強く感じるのである。

■ 註
(1) 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年、57ページから引用
(2) 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年、79ページから引用
(3) 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年、80ページから引用
(4) トニー・ゴドブリー著、木幡和枝訳『コンセプチュアル・アート』岩波書店、2001年、339ページから引用
(5)本学テキスト「写真芸術論」、71ページから引用

■ 参考文献
・ 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年 
・ 笠原美智子著『ヌードのポリティクス』筑摩書房、1998年
・ 佐野寛著『メディア写真論』パロル舎、2005年
・ 小久保彰著『現代写真の展開』筑摩書房、1990年
・ トニー・ゴドブリー著、木幡和枝訳『コンセプチュアル・アート』岩波書店、2001年

November 03, 2006

またまたスクーリング中

前回のスクーリングの疲労が癒える間もなく、今日(11/3)から東京でのスクーリングが始まりました。
講師はドイツ帰りのN原先生。今回は、"My Collection"というお題で何かしらの事前準備をしておくようにという指示だったんで、街歩きで撮り貯めていた写真の中から、あるテーマに絞ったものをコレクションとして提示してみたんだけど、それに対して、「それだと単に写真を並べただけになってしまい、なぜそれを対象にするのかが判らない(伝わらない)」ということを指摘されました。
これは、実は自分でも今ひとつ明確ではなっていなかったことなんで、突っ込まれたら答えに窮してしまいました。ということで、まずはこの辺りを自分のなかで明確にしていくことと、その過程で見つかった何かをかたちに出来るかどうかを考えてみました。
そんな状態だったんで、今回は前回よりも悶々度が高かったですね。
なんで、気分展開でサテキャンの周辺を散歩して気分転換してみたり。
お陰で、地図上でしか知らなかった出世稲荷神社を見つけました。こんなビルの合間(?)にあったんだ...

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構想纏まらないながらも、N原先生とディスカッションをし、「なぜその対象を写真に撮ろうとするのか」と言うことが、単に好きだから、あるいは気になるからだけではない、自分なりの捉え方の結果であることが朧げながら見えてきたんで、その方向性で進めてみようということに。
なんで、二日目はディジタル一眼レフを持っていくことにしました。フィルム一眼レフにしようとも思ったけど、あとあとの加工を考えてディジタルの方にしました。それに、フィルムのほうは標準と広角レンズしかないけど、マクロ撮影の可能性もありそうなんで。単焦点レンズしか持っていないので、柔軟性が弱いんですよねえ。


November 02, 2006

言葉足らずですが...

今回のスクーリングでは、フィールドワークの結果として、主観による写真集を作成したあと、写真集を元にして客観的な視点で新しい形態の「地図」を作るという課題が与えられました。
なんで、私は前述のように、学内に路地裏を作ってしまおうという、安易な発想でいくことにしました。

そもそもは、人間館のNA303教室への続くスロープが作品に使えそうな気がしたのが発端ですが...
路地を歩いていく途上で、目の前に曲がり角があったときに、その曲がり角の向こうに何があるのかという、「未知なるもの」への不安、あるいは好奇心みたいなものが、この場所を使って表現できればと考えてみました。

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この架空の路地に配置してみたのは、窓をイメージする絵と、子供たちの遊びをイメージさせる写真など。窓は時間の経過、つまり、現代から過去への遡っていくことを象徴できるように、カラーのものを、セピアに、最後はモノクロに、と変化させてみました。
あとは、架空に体験した「路地に共有する記憶」を引き出すことで、架空の路地に対する意識の共有が得られないかということで、子供のときに皆がやった(であろう)「遊び」を配置してみました。

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ここら辺が、路地に対する「ノスタルジックな感覚」みたいなものを共有化するためのアプローチでした。問題は、架空の路地を曲がった先に広がる「未知なるもの」をどう表現するということでした。簡単に言うと、角を曲がったら、そこに何があればいいか、ということ。
で、悩んだ結果、安易なオチにしてみたのですが、もっと捻りが出来たんじゃないかというのが先生からの指摘でした。
あと、ここでもう一つ「オチ」というか仕掛けを考えてみました。それがこの張り紙。
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これは、私たちが合評会をしている最中に、たまたまここを通った人が張り紙を見つけて、ここに書かれていることを実行してくれたら、合評会に参加している人達がその内容にビックリするだろうな、という偶然性にかけたものでした。この考えの元は、今回のスクーリングを担当されているN山先生の作品なんですけどね。
たまたまその場所を通った人が作品(インスタレーションの場)を完了させる役目を果たすってのは、面白いなあと思ったんで。

説明が言葉足らずで申し訳ないですが、路地は「未知への繋がる場所」、そして「過去への遡る場所」という「場」と「時」を表わした場ではないかという観点で作品化した次第です。

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