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November 04, 2006

「写真芸術論」(第二課題)

11/2に「写真芸術論」の第二課題の結果が出てました。
セルフポートレートのテーマにしたのに、ポートレートに関する考察をごちゃごちゃになってしまった割には、そこそこの評価を貰いました。まあ、そんなもんでしょ。最近の推敲不十分状況からいくと仕方無いか。今年度は同じような言い訳ばっかりだな。
しばらくAを見ない...(某映画タイトルのもじりか?)

という訳(?)で、恒例の全文掲載です。あくまでも反面教師として活用ください。

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『写真芸術論』レポート(第2課題):セルフ・ポートレイトにおける視線
※ 選択テーマ:セルフ・ポートレイト

1.はじめに
 自分は写真に撮られることが苦手である。従って、自らセルフ・ポートレイトを撮ろうと思うことはほとんどない。自分からセルフ・ポートレイトの撮影を望むとすれば、その状況でしか得られない自分の姿を残しておくための「記録」という形になるであろう。
 では、写真を撮られることが苦手な理由はなんだろうか。
 シャッターが切られるまでがほんの短い時間であっても、何かしらの表情やポーズを取る必要があるとの強迫観念があるからかもしれないし、あるいは、反対に自分が意識していない姿をカメラに撮られることへの恐れの気持ちからなのかもしれない。

2.セルフ・ポートレイト写真の黎明期
 ポートレイト写真が、写真として最初のビジネスモデルであったことが参考文献『写真美術館へようこそ』で記載されている。そして、19世紀の社会において、写真ビジネスが成り立った理由として、本文献のなかでは以下のように述べられている。
 「人々が争って写真館に足を運んだのは、それだけ自分たちの”顔”を求める欲求が強かったからともいえます。(中略)自分たちの社会的地位や力を誇示するシンボル的なイメージを求める必要がありました。その一つが”顔”すなわち肖像だったわけです。」と述べる。(1)
 同様の理由で、写真家が自らのポートレイト写真を追い求めることとなる。
 参考文献『ヌードのポリティクス』のなかでは以下のように述べられている。
 「理想化された自分の像への熱狂は、経済的ステータス・シンボルとしての動機の他に、カメラという19世紀科学技術進歩の賜物への妄信からと理解できよう。(中略)写真に描かれる全てが客観的な事実だとしたら、写真に写った理想的な自分の像もまた、疑いようもない事実である。」(2)
 加えて、「セルフ・ポートレイトを制作する動機には、まず<自己>という認識と、自らのアイデンティティを確立しようとする意志がある。」と述べる。(3)
 19世紀のセルフ・ポートレイトにおいては、状況を設定した擬装を用い、ある役割を演じたものも見られたが、ほとんどは上記のように、社会的、経済的、文化的なステータスを表した姿かたちを、後世まで残しておくための記録とするケースであった。

4.セルフ・ポートレイト写真とアートとの関係
 セルフ・ポートレイトの持つ意味が大きく変わったのは20世紀に入ってからであろう。
それは、写真とアートとの関わりの変化も要因の一つであった。参考文献『コンセプチュアル・アート』では「つまるところ、写真を使うことでコンセプチュアル・アートが生んだ最大の効果は、自明のことを表明するのではなく、問いを発する機能を写真にあたえたことだった。コンセプチュアル・アートが写真を変質させるわけではないが、写真というものに対する考え方は変わった。見る側の、見る行為に対する自覚を高めた。」(4)
 この引用文では見る側の視点で書かれたものであるが、見られる側の視点で考えれば、「問いを発する機能」をどのように写真に埋め込むかが課題だったと捉えることができる。そのなかで具限化された方法の一つが、自分の内面にある視点や思想などをセルフ・ポートレイトという形で表現することであった。
 1980年代、アートでは「新表現主義」が主流となった頃に、写真ではコンストラクション・フォトグラファーが台頭する。テキストで紹介されているシンディ・シャーマンはそのなかの一人であり、セルフ・ポートレイトを中心に作品を発表し続けた。
 ところで、シンディ・シャーマンの初期の作品は、様々な女性の姿を自らが演じてみせたものであった。それが映画の中のワンシーンという設定でなくとも、それ以外のメディア、あるいは通常の日常生活で垣間見るようなシーンが展開されている。(参考作品1)

 この時代を知らない世代であっても、過去のテレビで見た風景とリンクして、ノスタルジックというような不思議な感覚に陥ることがある。しかしながら、服装や化粧を変え、ウィッグを付けることで様々な姿を見せる写真からは、シャーマン自身の個性が希薄である。なにかしら、それらの外側を纏うものが「殻」となり、シャーマンとしての素の部分を殻の中に隠しているように思えてくるのである。

5.セルフ・ポートレイト写真とジェンダー
 黎明期のセルフ・ポートレイトが、当時の男性中心社会における「社会的、経済的、文化的なステータス」を示すものが主流であったとすれば、1960年以降は、フェミニズム運動やウィメンズ・リヴ運動を反映するかのように、女性によるセルフ・ポートレイトが見られるようになった。
 ジュディ・データーの作品は、孤独、葛藤、老い、身体性、セクシュアリティなど女性が抱える問題や不安のような内面性を扱ったものと、擬装を用いることで社会が求める女性の姿を劇画化し、社会が持つ女性に対する固定観念を批判した(あるいは茶化した)ものがある。
 参考作品2の《食べる》では、「見られちゃった」と驚きの表情のインパクトが大きいが、この女性がそんなにたくさんのものを食べようとしているのか、テーブルの上ではなく部屋の片隅で食べなければいけないのか、という疑問符が投げかけられる。

6.セルフ・ポートレイト写真における視線と自己演出
 私が人物を撮る場合には記念写真のように事前準備を経て撮ることは少なく、私が自分勝手なタイミングで撮っていることが多い。
それは、妙に作ったような笑顔やポーズよりも、そのときの流れの中で自然に生まれた表情や動作を捉えたいからである。
 しかし、ポートレイト写真においては、自分が撮られるということが予め判っているため、撮られる側は自分の目の前に置かれたカメラという存在を意識せずにはいられない。加えて、カメラを媒介とした撮影者の視線の存在も意識することになる。そこには常に二つの視線が存在するのである。そして、見る側と見られる側という一方向の関係のなかで、被写体となる側は「見られることへの対処行動=自己演出」を行ってしまう。
 テキストの中で、フロランス・アンリの作品に対して、「この見る−見られるという関係の本来的な非対称性が、セルフ・ポートレイトにあっては「同位」にあることを物語ろうとする。」と述べている部分がある。(5)
 ここでは、撮影者=見る側と被写体=見られる側という関係が、撮影者=被写体になったことで崩れたことを示している。主題を客観視する撮影者と、視点に対峙するエモーショナルな被写体が同一人物となるからである。しかし、実際にはカメラという、もうひとつの客観的な視線が潜在している。
また、セルフ・ポートレイトを撮るためには、カメラのシャッターボタンを押すという行為以前に、まずはカメラの前に立つという自発的な行為が必要となる。例えば、カメラが自動的に動作するような細工を施しても、結局は画面の中に収まるための行動を起こさなければならないだろう。このような行動が既に「自己の演出」(テキストのなかでは「作為性」と述べている)の始まりである。

7.終わりに
 ポートレイト写真を撮影しようとするときに、戸惑いのようなものを感ずることはないだろうか。綺麗に上手く撮らなければいけないという気負いとは異なる、ある意味「照れ」のようなものである。
これは、ポートレイトを撮影する際に被写体と向き合うときに生まれる感覚である。撮影者がカメラを通じて被写体を捉えるときは、こちらが被写体を観ていると同時に、こちら側もカメラを通じて観られているということへの気恥ずかしさが内在しているからではないだろうか。撮影者(あるいは観察者)として冷静に、そして客観的に被写体を見つめたいのに、被写体と対峙することによって感情の動きが生じてしまうのである。
 従って、セルフ・ポートレイトを撮影するということは、その感情の動きを排除して、どれだけ自らを客観的に見つめられるか、そして作品を作るための題材・オブジェとして扱うことが出来るか、ということなのかもしれない。ジョン・コプランズのセルフ・ポートレイト作品(参考作品3)の見ると、そのような考えを強く感じるのである。

■ 註
(1) 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年、57ページから引用
(2) 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年、79ページから引用
(3) 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年、80ページから引用
(4) トニー・ゴドブリー著、木幡和枝訳『コンセプチュアル・アート』岩波書店、2001年、339ページから引用
(5)本学テキスト「写真芸術論」、71ページから引用

■ 参考文献
・ 飯沢耕太郎著『講談社現代新書 写真美術館へようこそ』講談社、1996年 
・ 笠原美智子著『ヌードのポリティクス』筑摩書房、1998年
・ 佐野寛著『メディア写真論』パロル舎、2005年
・ 小久保彰著『現代写真の展開』筑摩書房、1990年
・ トニー・ゴドブリー著、木幡和枝訳『コンセプチュアル・アート』岩波書店、2001年

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