« 停滞中 | Main | 6月の制作課題提出 »

June 21, 2009

「身体デザイン論」(第一課題)レポート評価結果

6月10日に提出したレポート課題(4課題)のうち、「身体デザイン論」の評価結果がサイバーキャンパスに提示されてましたよ〜
いつもよりちょっと早いような気もするけど。他に提出している人が少ないのか?(笑)
で、評価結果は"A"でした!!
再入学後の初回の結果としては良好で、幸先良いスタートとなったかなぁ?
今年度から"S"評価もあるんで、一度は見てみたいものですねえ〜(多分、ムリ)

では、添削内容は後日機会があれば記事に載せますが、まずは提出したものを参考(なるのか?)として掲載しますね。

---
『身体デザイン論』レポート(第1課題)
「身体加工における皮膚という境目」

1.はじめに
 近年、ニューハーフタレントが毎日のようにTVの画面に現れ、男性が女性の身体と同じ外見へと手術することを「工事」という言葉で軽く表現していることを聞くことがある。
 また、男性のプチ整形という行為が広く行われていることということを聞くことから、本人が意図的に身体へ加工する罪悪感は弱り、その行為に異議を唱えることが少なくなったと言えよう。

2.身体加工の目的
 身体を加工する目的はなんであろうか。
医学博士であり、人類学に造詣深い吉岡郁夫が文化人類学的見地から書いた著書によれば、「身体変工」とは、「これは生きている人体の一定の部分に、長期的ないし不可逆的な変形や傷を、意図的につくる習俗である」(1)とし、「この変形は伸長、狭窄、穿孔、切開、切断、縫合、打撃、焼杓などの方法で行い」(2)と定義したうえで、身体を加工する目的としては、呪術、儀礼、医療、美容の目的で行われることが多いと述べる。
 これらは、民族や部族という集団のなかで共通して行われた行為であるが、私たちの日常、あるいは個人生活を考えた時に、身体を加工する行為の目的とは何だろうか。
鷲田清一が著書で述べるように、「身体表面の加工ということでは、いま述べたような身体の象徴的切断にとどまらず、それと同じくらい、ぼくらは身体にいろんな手を加えている。実際、身体のどこをみても、何の変工も加えることなしにそのまま放置してある部位がほとんどないということだ。」(3)
ピアスをするために耳たぶに穴を開ける、身体に刺青を入れるという過剰な行為も見受けられるが、髪を切ることや髭を剃るなどの身だしなみを整える行為だけでなく、メダボリック対策として食事のコントロールや運動によって体重や体型を変えようとする行為や、革靴を履き続けることによって足が変形してしまうことも、言ってみれば身体の加工という行為であろう。
これらの身体加工の行為において、共通している点は、他者に見える部分をどのように変化させるかという点である。
 例えば、先に述べたメダボリック対策で体型を変えることは、血糖値を減らしたいなどの将来の病気へのリスク回避という医療の側面が強いが、単にダイエットによって体重を減らしたい、あるいはプロポーションを変えたい、という欲求の根底には他人にどのように見られたいかという意識の方が強いのではないだろうか。
 また、自分のためと言いながらも、自分自身を客観的に見つめているもう一人の自分(イコール他者)という存在がいるは否定できないだろう。
「考えてみるに、どうもおそらく、身体を意識するよりも先に、身体のモデルがあるらしい。」(4)
 つまり、加工という行為は自分の意図であっても、何よりも他者の視線が問題視されるものなのである。
 自分が描いている身体モデルがあるからこそ、そのモデルに自分の身体を近づけようと努力することで、他者の視線に打ち勝とうとしているのであるが、そのモデルは固定ではなく、外部要因などの影響で時間とともに変化していくため、いつまでも自分の作り出したモデルから越えられることができないのである。
これは、テキストのなかで述べられている「不在のモデルをめがけて、自分自身の身体をかたどり、変形する」という部分と合致するものである。
 しかし、「不在のモデル」の獲得だけが身体を加工するという行為の目的なのだろうか。

3. 身体加工の簡素化
 鷲田清一は、吉岡郁夫が述べている身体の変工のように、長期的ないし不可逆的な加工を行わなくても、化粧や衣装により簡単に身体を変えられるということを下記のように述べている。
「衣服のかたちは、われわれが自分たちの身体に対してもつ意識や、意識に上がらない潜在意識との一種のかけひきのなかで決定される。それは、ときに、身体の存在をあたかも否定するかのように、つまり、その量感や輪郭を覆い隠すように構成されもするし、逆にそれらを浮き彫りにしたり、誇張するように構成されたりする。(中略)身体の表面を別の表面へと変換するという点では、ボディ・ペインティングも身体加工も着衣も基本的に差はない。ファッションとは、まずはわれわれの可視的な存在の変換プロセスのことなのである。」(5)
 つまり、可視的な部分を、自らの身体を傷つけてまでして変換を果たそうとするか、あるいは容易な手段でやり過ごそうとするかという差分でしかない。
「人が衣服を身につける理由をここで一応整理すると概略次の三点になる。一つは身体の美化(装飾説)、次に体形を隠す隠蔽説、そしてもう一つは身体保護説である。」(6)
これは、着衣の理由に関する記述であるが、身体の加工との共通点があろう。そもそも、衣服を着ると言う行為は、一番身近で簡単な身体への加工の手段ではないだろうか。
 上述の着衣の理由のなかで、身体美化説が身体加工の理由と共通するものがある。
例えば、上述の参考文献では、身体美化の理由として、1)権力や社会的身分の誇示、2)宗教的権威の表現、3) 心理的攻撃または威嚇、4)肉体的魅力の増大、を挙げている。
 そもそも、身体の加工自体が目的ではなく、加工によって得られた身体がもたらすものが重要なのである。
「ただ、人が美しくなりたいと願う気持は、単なるナルシシズムではなく、また自然や芸術を愛でる心ともちがって、美そのものに酔うというより、美によって幸福を求める期待感情に基づくのである。」(7)
 人間の内側から外側への発信する手段の一つとして身体加工があるとすれば、本当に見える部分を変えるだけでよいのであろうか。また、身体という外見に対する物理的な加工よりも、内面の精神的な加工の方が更に楽ではないだろうか。

4. 皮膚の存在
 「どうしても見せてはならない身体部位が本来ありえないのだとすれば、「隠す」という服飾の技法が、隠されるべきものをでっち上げることによって、じつはもっと大切なことを隠していることもありえるということだ。」(8)
 これは、アーティストの二コール・トラン・バ・ヴァンが自己の展覧会に対して述べた言葉、"Nude is never naked. We always are covered with the clothing of our bodies."も同じ解釈であろう。
第二の皮膚と言われる衣服であるが、衣服を脱ぎ棄てて、裸体になったとしても全てを曝け出している訳では無い。
「女性だろうと男性だろうと、身体は公共の場ではいつも記号としての衣服に媒介される。」(9)
公共においては、素っ裸でいる人間はおらず、常に衣服を着用しているため、この言葉が成立すると考えてよいだろう。
では、「個人」と言う環境においても、衣服を身体の媒体と考えてよいだろうか。
やはり、皮膚という内と外との境目が、媒介になると考えてよいだろう。
このとき、皮膚は第二の衣服として存在し、衣服と同様に記号化されるである。
 そして、肌の色や皺などの表面的なものだけではなく、体形や肉付きなどの立体的な外見も含めて「皮膚」が記号化される。つまり、皮膚が衣服と同じであれば、衣服を取り替えるかの如く、存在する環境や対人関係に応じて皮膚の交換が行われなければならないが、皮膚の交換ができないため、それに代わる行為として身体を加工するのである。
それは、先に述べた、「不在のモデル」を目指すだけでなく、アイデンティティやジェンダーなど、社会のおける「記号」に自らの身体を当てはめようとする行為ではないだろうか。そのために、人々は、自己とともに他者や社会を常に観察することで、自分の望む「記号」を見つけ出し、記号に合致するようと試みるのである。

5.おわりに
 身体の加工の目的については、「不在のモデルの追求」と「記号化」という二つの側面があるのではないかと考えた。
 しかしながら、記号化、イコール画一化という部分に対して、下記のように、化粧品や衣服、身体の画一化に対抗する流れがある。
「彼らは、ある種のエロティックな記号(口、目、乳房、染み、瘢痕など)をバロック的に誇張することによって、新たな肌の美学の次元と、身体を通じた社会批判や権力批判の次元とを切り開いた。」(10)
 情報コミュニケーションにおいて、筆記用具がキーボードへとインタフェースのための道具が変化したのと同様に、社会とのコミュニケーションに対するインタフェース部分である身体(皮膚)の捉え方・扱いも時代とともに変化していくのであろうか。
「もちろん、人造美女を考える以前に、そもそも美女という概念自体が非常に人工的な、歴史上で発明された言説体系にすぎない、という問題も横たわっている。」(11)
 このことからも、空間や環境と身体との係わりについて、常に考えていく必要があるだろう。
【3556文字】

■註
(1) 吉岡郁夫著『身体の文化人類学?身体変工と食人』有山閣出版、1989年、5 ページから引用
(2) 吉岡郁夫著『身体の文化人類学?身体変工と食人』有山閣出版、1989年、5 ページから引用
(3) 鷲田清一著『ちぐはぐな身体?ファッションって何?』筑摩書房、2005年、32ページから引用
(4) 鷲田清一著『ちぐはぐな身体?ファッションって何?』筑摩書房、2005年、39ページから引用
(5) 鷲田清一著『最後のモード』人文書院、1993年、77ページから引用
(6) 渡辺健治/増子博調著『女性美のエスプリ』里文出版、1996年、11ページから引用
(7) 渡辺健治/増子博調著『女性美のエスプリ』里文出版、1996年、19ページから引用
(8) 鷲田清一著『ちぐはぐな身体?ファッションって何?』筑摩書房、2005年、42ページから引用
(9) ジョアン・フィンケルシュタイン著『ファッションの文化社会学』成実弘至訳、2007年、86ページから引用
(10) ドミニク・パケ著『知の再発見双書82 美女の歴史』木村恵一訳、創元社、1999年、98ページから引用
(11) 巽孝之・荻野アンナ編『人造美女は可能か?』慶應義塾大学出版会、2006年、128 ページから引用

■ 参考文献
・ 吉岡郁夫著『身体の文化人類学?身体変工と食人』有山閣出版、1989年
・ 鷲田清一著『ちぐはぐな身体?ファッションって何?』筑摩書房、2005年
・ 鷲田清一著『最後のモード』人文書院、1993年
・ 渡辺健治/増子博調著『女性美のエスプリ』里文出版、1996年
・ ジョアン・フィンケルシュタイン著『ファッションの文化社会学』成実弘至訳、2007年、
・ ドミニク・パケ著『知の再発見双書82 美女の歴史』木村恵一訳、創元社、1999年
・ 『デ・ジェンダリズム?回帰する身体』世田谷美術館企画、淡交社、1997年
・ 巽孝之・荻野アンナ編『人造美女は可能か?』慶應義塾大学出版会、2006年
・ 谷川渥著『肉体の迷宮』東京書籍、2009年

« 停滞中 | Main | 6月の制作課題提出 »